中学受験

受験は「戦争」ではない 

「偏差値60以上の学校に合格した受験生」を「勝ち組」と呼ぶ風潮が不気味でならない・・

「受験」に勝者と敗者は存在するのか

私が35年ほど在籍していた塾は「中学受験専門塾」という看板を掲げていました。業種的には「進学塾」というカテゴリーに分類されることになります。したがって、私たちにとっては、教え子を志望校に合格させることが「職務」であり、他塾の合格実績に負けないだけの「戦果」をあげることが、世間の評価、そして次年度以降の生徒数の増減に直結する。そういう意味では、毎年2月の中学受験は、私たちにとって年に一度の「大戦(いくさ)」です。

でも私は、「受験戦争」という言葉がずっと大嫌いでした。

受験は、私たち進学塾教師にとっての「大戦」であると同時に、受験生と保護者にとっても、過酷な「戦い」であることは否定しません。でも「争い」ではない。

「競争」という言葉も、あまり好きではありません。受験勉強において「競い合うこと」はある程度は必要でしょうが、決して「争う」必要はないと思うからです。

そして「争い」がなければ、「勝者」も「敗者」も存在しない

 

「受験戦争」という煽り文句を作ったのは誰なのか

「受験戦争」という言葉が使われ始めたのは一説によると1960年代。第一次ベビーブーム世代が高校受験・大学受験で「一流校」に合格するために熾烈な受験勉強に駆り立てられるようになった、その様をマスコミが「受験戦争」と呼ぶようになったといいます。

「四当五落」(睡眠4時間なら合格、5時間なら不合格)なんて言葉も流行りました。ハチマキを絞め、志望校の前で「エイエイオー」と鬨の声をあげる光景も、まさに「戦場」の雰囲気を彷彿させるもの(中学受験でもそういう慣習が長く蔓延っていました)。だから少なくとも「たとえ」として、それなりに実態を反映していることは否定しません。

しかしこの言葉は常に「争いに破れた者の悲惨な末路」をイメージさせ、その過酷さを強調し、敗者への同情を煽り立てる文脈で使われているように感じます。かつて蜷川虎三京都府知事は「十五の春は泣かせない」というスローガンのもと、公立高校入試に「総合選抜」を導入し(京都府では1950年ー2013年)、それが全国に広がりました。東京都では1967年に「学校群制度」として導入されます。名前も形式も微妙に異なりますが、いくつかの高校をグループ化して共通の試験を実施する点は同じ。合格者がグループ内のどの学校に進学するかは「居住地に近い学校」であったり、完全に運任せだったりします。

総合選抜の目的は学校間の学力格差をなくして、受験戦争を緩和することにありました。例えば東京都では、学区外の受験を不可能にすると同時に、受験科目を9教科から3教科に減らして、内申書重視の選抜方式を採用します。その結果、

1.都立日比谷などの超人気校が軒並み大学受験実績を減らし、かわりに私学が台頭する

2.「運悪く」希望する高校に進学できなかった受験生も併願した私学に入学する

3.頑張っても希望する学校に進学できないなら、自由に学校を選べる中学受験を選択する

などの一連の流れが生まれました。ということで、今日の中学受験ブームの出発点は、蜷川府知事のおやさしいお言葉にあったわけです。

 

「十二の春の涙」は「残酷」なのだろうか

確かに、入学試験で「選抜」される以上、合格者と不合格者のあいだにはくっきりとラインが引かれます。夢を叶えた者と、叶えられなかった者。目標を達成できた者と、達成できなかった者。わずか1点の差で、「運命」は左右されます。

でも、私は不合格だった者が「敗者」だとは思わない。悔し涙を流す教え子を前に「なんて残酷な・・」などとは思わない。何年間にもわたる塾通いや受験勉強が「無意味なもの」になるわけでもない。本気の悔し涙が、その子の人生にとってどれだけかけがえのない経験になるか、家族全員にとって一生忘れられない思い出になるか、それを何度となく目の当たりにしてきたから。

もしそれがいつまでも癒えないような大きな傷になったとしたら、そこには必ず「不合格」という結果以外の要因があるのです。

ABOUT ME
kurotama
元進学塾教師。今年の1月末に健康上の理由で円満退職し、いまは原稿執筆など、在宅でできる仕事をボチボチと始めています。